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評論、書評、エッセイ

【食することの自由をめぐって】

●二木島の鯨供養塔を訪ねる

 二木島の鯨供養塔を訪ねることを思い立ったのは、「食のグローバル化」について考え始めたころだった。長く鯨を捕獲し食してきたことは、日本人の食生活にとってどのような特性を与えたのだろうか、供養塔の前で考えてみたかったのである。
 
 JR紀勢線二木島駅(熊野市)近く、駅の背後の山の斜面を民家の間をぬうように熊野古道を上っていくと、二木島湾を見下ろせる斜面に鯨供養塔は建てられている。1950年代に開通した紀勢線と港湾設備の拡充によって海岸線は当時と大きく変わっている。供養塔の位置が当時のままとすれば、捕獲された鯨の処理が行われたおぼしき場所を見下ろす位置にある。
 風化にたえて、刻まれた文字は比較的よく残っている。2メートルほどもあるだろうか。説明文によると、中央に「鯨三十三本供養塔」、右に「寛文十一竜集辛亥」、左に「三月吉日木下彦兵衛建」と刻まれている。1671年の建立である。「三十三本」とは実際の捕獲数ではなく、象徴的表現であろう。数え切れないほどの鯨が捕獲されたと思われる。熊野灘に面する浦々には多くの捕鯨供養塔が残されているが、二木島の供養塔はその代表的なものであるである。
 二木島湾は奥深く、広く、水深もある。黒潮に乗って回遊してくる鯨の群れを湾内に追い込み、捕獲した情景はこの地形から十分に想像できる。だだ、山裾にへばりつくように建てられた集落を散策しても、捕鯨で繁栄した面影も痕跡も残されていない。この地を襲った幾度かの天災がすべてを流し去り、高台の供養塔だけが残ったのであろう。
 それにしても、ここで捕獲されたおびただしい数の鯨の肉はどのように保存され、どこに運ばれたのだろうか、どのように食されたのだろうか。この地の鯨漁業はいつ消えてしまったのだろうか。資本主義的企業形態をとった水産巨大企業の登場はこの地をどのように変貌させていったのだろうか。関心の広がりは抑えがたい。羽原又吉の著作などもう一度調べてみたいと思った。
 
 商業捕鯨の再開を求める論拠として、供養塔がクローズアップされている。日本人が鯨に感謝して食したことの証とされ、あるいは鯨肉は日本人の食生活史にわかちがたく結びついている証であるとされている。
 わたしはそうは思わない。わたしの少年時代は日本の遠洋商業捕鯨の最盛期であった。映画館で上映されるニュースの映像を今でも思い出す。母船が多くのキャッチャーボートを従えて南氷洋へ出航するさまは、まさに敵地に向かう艦隊のように勇壮にみえた。事実そのような意図で撮影されていたと思う。白長須鯨や抹香鯨の巨体に銛を打ち込むキャッチャーボートと砲手の映像など、敵の軍艦に魚雷を撃ち込むことさえ連想させた。
 日本の遠洋商業捕鯨は食の工業化とグローバル化の先駆であった。切りさばかれた赤身の鯨肉を前にして、感謝の気持ちなど湧いてはこなかった。どのような種類の鯨の肉なのか、どのような部位の肉なのか、どこで取れたのか、どのようにしてわたしたちの手に届いたかを知るよしもなかった。庶民の食肉に情報開示は不要だったのである。しかもそれはある種の「戦果」でもあった。
 それとは違い、江戸時代の漁民たちは捕獲と殺戮を眼前にして、鯨への感謝を込めて供養を決断したのであろう。食の工業化とグローバル化は、食材の採取の現場から消費者を遠ざけ、感謝や供養の気持ちを失わせていく。感謝して食する、それは日本人の特性であるだけでなく、自然と人間との本来の関わりのであった。その関わりを食の世界で実感させることが、いま求められているのではないか。 (2003年5月1日記)


●捕鯨についてもう少々

 捕鯨について関心がまだ続いているいるので、もう少し書いてみたい。
 
 二木島で抱いた疑問を解決するために、羽原又吉の著作をひもといてみた。彼は日本漁業経済史に関する壮大な著作なかで捕鯨に関する資料を多数紹介している。私の疑問のいくつかは氷解し、誤りもただすことができた。
 彼によると、幕藩体制下の紀州では産業政策として捕鯨振興策が展開され、産業組織、労働組織も出来上がっていて、都市圏への流通ルートも近江商人を通じて、あるいは直販体制によって完成していたようである。鯨を食する慣習は当時の都市生活で想像以上に一般化していたように思われる(『日本漁業経済史』(全4巻)、下巻、岩波書店、1955年。特に第25章「紀州藩の漁業及び漁村」参照)。
 最も示唆的なのは、捕鯨と富国強兵、帝国主義的国際関係との関わりの分析である。羽原によると、突漁を編み出したのは武士であったというし、紀州や土佐では水軍の軍事訓練というの意味もあったという。その指摘をふまえて考えてみると、多数存在する供養塔は、戦闘行為にも似た血生臭い突漁に対する贖罪の意味もこめられているのかも知れない。捕鯨と政治権力との密接な関係は近代遠洋捕鯨の登場に最も明確に示される。商業捕鯨は幕末開港から明治維新に至る国際関係の影響下で必要性が自覚され、明治30年に制定された「遠洋漁業奨励法」によって制度化されて行く。国策会社が主導権を握り、零細な沿岸捕鯨は見捨てられてゆく。二木島の衰退は資源の枯渇によるものではなかったのである。遠洋捕鯨と開国との関係を予見して近代捕鯨技術の開発に最初に取り組んだのは高島秋帆であったという(『日本近代業業経済史』(全2巻)岩波書店、1957年1月刊、特に下巻第1章「幕末以降明治時代の水産業」第2節「維新直後の漁業」参照)。このように捕鯨はその出発点から国威発揚、富国強兵のための国策であった。私が少年時代に捕鯨船団の映像にみた艦隊出陣にも似たあの勇壮さは、まさにその国策の真髄を反映したものであった。
 
 これを書いている一週間ほど前に、ベルリンで開催された国際捕鯨委員会年次総会が開催されており、商業捕鯨再開を求める日本代表団の孤立が伝えられていた。私が鯨に関心を持つようになったのは食のグローバル化、工業化にかかわってのことであったから、商業捕鯨再開の是非についてここで意見を述べるつもりはない。ただあえて言えば、鯨肉を食した体験を持つ人の数は日々減少している。若者たちはまったくといってよいほど関心を示さない。商業捕鯨再開が国益とする主張が弱々しいのは当然なように思われる。にもかかわらず、国益に固執するのは明治以来の日本の水産政策の体質の残滓としか言いようがない。
 
 先日、大学時代からの友人Iさんが彼の出身地である青森県八戸地方の「くじらの八戸太郎」という民話を送ってくれた。内容をうまく要約できないのだが、八戸地方の漁民たちが守り神とあがめていた「八戸太郎」とよばれる大きな鯨がいた。それとおぼしき鯨を紀州の熊野浦のモリ打ち漁師が突き漁で深手を負わせる。漁師はそのたたりか同じモリで事故死する。その鯨が八戸の鮫海岸の漂着して死ぬ。死体は朽ちることなく大きな岩になり、今日まで地元漁師にまつられているという。この民話の寓意を私はまだよく理解できないでいる。東北地方の漁民たちは捕鯨をしていなかったのだろうか、それとも殺戮のうしろめたさから紀州の漁民を悪役に仕立てあげたのだろうか。いずれにしても、突漁の残虐さを伝えている点で面白かった。(2003年7月1日記)
  
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