きたにひと

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鉛筆よ永遠なれ -筆記用具(その2)-
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雑記帳
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日常雑記
カードとファイルで何が変わったか -雑記帳(その3)-

 大学ノートが研究の基礎作業には使いづらいものであることは、私のように実証的研究から研究をスタートさせた者にとっては明々白々であった。平行して資料を読むのに向いていないし、統計を作るのにも向いていなかった。執筆するときにノートを探し、必要箇所を発見するのも煩雑であった。ゼッロクスコピーが登場したのはずっと後だったし、湿式コピーがあったが、不鮮明な上、高価であった。あの頃湿式でコピーした文献はいま見るともう判読すら不可能なくらいに変化してしまっているものもある。要するに、書き溜める以外に方法はなかったのである。痛むペンだこと手首の疲労を気にしながら、資料を要約し、書き写す、これが毎日の作業であった。

 大学院生の頃の私のノートづくりに大きな影響を与えたのは、レーニンが『帝国主義論』その他執筆準備のために作った21冊のノート、いわゆる『帝国主義論ノート』であった。ドイツ語訳が1957年に出版され、天才の学習の秘密をはじめて知ることができた。その時から私のレーニン模倣が始まった。ギリシャ語文字を使ってノートを分類したのも、レーニンのまねだったし、抜き書きの仕方、強調する場合の傍線の引き方、欄外への書き込みの仕方、「NB]というラテン表記法等、すべてレーニンから学んだ。

 大学の研究所に就職して、研究そのものを合理的に効率的に進めることを求められて、私のノート作法は挫折した。同僚たちの仕事ぶりと比較して、大学ノート一辺倒はもはや通用しなかったのである。

講義案 ノートとの折衷でルーズリーフノートを使ってみた。丸善の文具売り場で見つけた角穴ノートを使っていたこともある。ペンがよく滑って疲れず、ページ当たりでかなりの情報量を書き込めた。ところが他の様式との互換性がなく、紙もファイルも重いので止めてしまった。先日丸善京都支店を覗いてみたが、文具売場にはもう見あたらなかった。

 そのころ研究所では、特注でつくったA4サイズの紙を使うことがはやり始めた。無地の黄色い紙でペンの滑りがよく、わたしも同僚にならってこれを使うことにした。いくらでも書き散らすことが出来る。ファイルしておくと、多様な組合せが可能になる。それ以来、わたしの手元から古典的なノートは消えた。

 今わたしの手元に残っているノートやメモはこの種のものばかりである。講義案もすべてこれで作成し、ファイルした。翌年の講義のためには追加のページを加えるだけですむので、講義準備は非常に楽になった。1977年の講義案の1ページを示しておこう。

 このころ京大式カードが流行し始めた。1969年に、当時京都大学人文科学研究所の教授だった梅棹忠夫が『知的生産の技術』(岩波新書)を著し、超ベストセラーとなったのが、その流行に火をつけた。川喜田二郎のKJ法が流行ったのもこのころだったと思う。さっそく挑戦してみたが、梅棹のシステムの限界はすぐに見えた。たしかにポケットに入れておいていつでも使えるという点では便利であったが、書き込める情報量は限られ、梅棹の整理法は立派な広いオフィスで研究できる「富裕な」研究者に限られた特権的整理法に思われた。結局、京大カードは文献カートか数行のメモの目的にしか使用できなかった。在外研究の時代に、わたしはA5サイズのカードを抜き書きに使用した。この方が書き込める情報量が多かったからだ。京大式カードA5判カードと京大カードのサイズを比較しておこう。京大カードには1987年11月28日に考えた論文構想が書かれているが、これなどかなり詰め込んで書いた方である。結局、京大カードは文献カードとして、ポケットにしのばせて本屋の立ち読みの際のメモ用紙として使われることが多くなった。

 コンピュータのプリンターは膨大な紙を消費する。その裏を使うだけで十分で、あえて新しい用紙をつくったり買ったりしなくてもよくなった。

 結局のところ、研究者やもの書きにとってノートとはいったい何だろうか。プロとして活躍する人だけでなく、学生たちにとってもノートとはいったい何だろうか。

 情報量の増大と関心の多角化の中で、古典的ノート作成法は廃れざるをえなかったし、ゼロックスコピーの登場、そしてワードプロセッサーの登場によって、情報のストックと処理におけるノートの役割はさらに低下せざるを得なかった。ファイルのシステムを自分にあうように構築すれば、多様なテーマを同時進行で追求することがはるかに容易になった。しかし、それによってわたしたちは、すくなくともわたしは先人たちよりもはるかに「頭が悪くなった」ような気がしてならない。文献から必要部分をコピーしファイルすればそれだけで仕事が進んでいると勘違いし、コピーした文献に蛍光ペンで線を引けば理解した気になる。これでは知的能力が低下するのは当たり前ではないか。あらゆるもの手書きで残す、それは苦労の多い作業ではあったが、仕事に対する充足感があり、頭脳を明晰にしたと思う。統計表ドイツ留学時代にわたしが書き写して作成した統計表を示しておこう。1967年の仕事である。この年、わたしは学部図書室に通いつめて100をはるかに超える表を手書きで準備し、膨大な抜き書きノートを作った。あの頃は今よりもずっと手と頭を使っていた思う。

 以前にNHKのあるテレビ番組でノーベル化学賞受賞者福井謙治氏が寝床で書いたメモが紹介されていたことを思いおこす。文字ではなくただの奇妙な形をした図形であったと思う。その内容は書いた本人しか解らない。手書きのノートも同じだと思う。数年前、紀州白浜の南方熊楠記念館に展示してある熊楠のノートとメモを見て、そこから発せられる、理解しがたいほどの思索世界の深さに脱帽するのみであった。文章化され公表されたものはそれ自体として理解の対象になり、理解もできる。手書きメモは違う。その背後に隠されている思索の深さに打たれるのである。

 47歳の若さで逝った畏友珠玖拓治の遺稿を整理して出版したときも同じ感じに打たれた(珠玖拓治『現代世界経済論序説ー世界資源経済論への道程ー』八朔社、1991年8月)。死の直前にアメリカで書いたノートとメモには、「資源の経済学」「世界資源経済論」について先駆的な示唆が多く含まれていた。メモの深部にあるものを十分に読み込めなかったことを恥じている。故人が書いた丸や線の真の意味を理解するためには、10数年をかけてもその理解の門口にさえ到達できないのだ。

 手書きの役割、手書きが持つ意味はIT時代でも基本的に変わらない。あるいは、IT時代であるからこそ、手書きを重視しなければならない。思索の表現方法としてどのような様式が適切なものか、わたしはまだ探している。

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