きたにひと

きたにひと
鉛筆よ永遠なれ -筆記用具(その2)-
萬年筆 -筆記用具(その1)-
雑記帳
雑記帳(その2)
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日常雑記
雑記帳

 同業で同年配の友人がコンピュータおたくのぼくにまじめにきいたことがある。「君は原稿をコンピュータで直接書けるのかね」。「とんでもない。着想や図示、思いついた文章表現はまず紙の上に書きますよ」とのぼくの答えに、コンピュータを使いこなせない彼は、安堵の表情を浮かべた。

 コンピュータの画面をにらんでいるだけでは、よい着想は浮かばない。よい着想は散歩の時、ベットの上、芝居の幕間などに突然現れる。忘れぬうちに慌ただしく手書きで書き留める意外に方法はない。複雑な論理をディスプレーの上に短時間で完全に再現することもできない。それ以上に、キーボードによる処理は人間の思考のスピードについていけないのである。コンピュータが役に立つのは、書くということに限って言えば、着想を整理して、最終的な文章にまとめる手助けをしてくれるだけだ。

 著名な学者や作家が書斎を公開する映像では、以前のような原稿用紙と萬年筆を前にした光景など滅多に見られなくなった。彼らはキーボードで入力する苦渋に満ちた仕事ぶりはあまり見せたくないのだろう。このようにして、手で文字を書くという行為がキーボードをたたく行為に取って代わられたかのような錯覚を生み出すことになる。

 学生たちを指導するとき、私はワープロの使用を強要に近い調子で推奨する。いまの時代にコンピュータを使えないでどうするのかと、彼らを叱責する。しかし本当のところ、この指導がもたらす悪影響は目に余る。それはよく承知している。ぼく自身もその某影響を共有しているからだ。コンピュータの普及は人間の思考能力を減退させている気がしてならない。ITそのものを敵視しているわけではない。ITが人間人間の思考や身体的能力に取って代わるという過信に、それへの依存のしすぎに問題があるのだ。

 無数のメモや文章を手書きで書くこと、それがあらゆる仕事の出発点である。それがだだの数語であったり、わけのわからぬ図形であったりしてもである。戦前にはよく使われていた雑記帳という言葉を思い出した。戦後はそれをノートと呼ぶようになったが、どうもこの「雑」とか「雑記」という表現が気にいらない。「雑い」とか「価値のない」ものの意味があるからだ。はじめにこの言葉を使った人は、おそらく「多様な」とか「さまざまな」という意味で使ったのだと思うが、これも当っていないように思う。ITの時代に、手書きで書き留めることは、かって以上に重要な意味を持つようになっているからである。手書きのメモを集積し、それらをコンピュータで処理し、まとめる。コンピュータは清書、推敲、編集、文書管理の役割を巧みに、迅速に遂行してくれるのだ。手書きの雑記帳の重要性はIT革命の時代でも変わらない。それどころか、ますます重要になっているのではないだろうか。

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