きたにひと

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日常雑記
机の上から原稿用紙が消えた-雑記帳(その4)-

 原稿用紙、これはかって作家や人文、社会科学者にとって欠かせない文具であった。著名な作家の書斎の写真を見ると、整頓された机の上には原稿用紙と萬年筆がしかるべき場所に置かれている。原稿用紙は、その写真の中では彼らの知的特権を誇示するための重要な小道具にみえた。名入りの原稿用紙が備えられていれば、その特権意識はさらに増幅された。原稿用紙に書いてみたい、この私の願望はいつも職業目的の実現への夢と重ね合わされていた。

 原稿用紙に初めて接したのは高校生の時だと思うが、あまり使った記憶がない。あの頃の発表形式はガリ版刷りで、目盛りをなぞって原紙に印刷用の「傷」を刻み込んでいた。活版印刷するほどの経済的余裕は田舎の高等学校にはなかった。大学に入っても、レポートを書くのに使用したぐらいで、原稿用紙は学ぶ仕事の必需品ではなかった。「傷」を刻み込む作業はさらに増え、私のペンだこは以上に膨張し、文字を書くたびに痛みを覚えることさえあった。

 その頃一番よく使ったのは、コクヨのB4縦書で二つ折り、400字詰のタイプのものである。いまだに需要があると見えて、これは店頭でよく見かける。学生たちに原稿用紙でレポートの提出を命じると、ほとんどがこの用紙を使って提出してくる。A4サイズが主流なのにいまだにBサイズに生命力があるのは、美濃紙半紙以来の役所の書類サイズの影響だろうか。

 原稿用紙をはじめて本格的に使ったのは大学院受験論文や卒業論文を書いた時だったと思う。丸善で買い求めた400字詰A3原稿用紙はとにかく高価であった。萬年筆で一字ずつ丁寧に枡目をうめる作業には充足感があったが、字を間違えて書き損じると、とにかく一枚ごとに経済的にこたえたものだ。大学教師になって出版社から原稿依頼を受けると、出版社の名入り原稿用紙が送られくる。それを机の上に積み上げると、書くことへの挑戦を前に身が引き締まる思いだった。

 コンピュータで文章を書く時代になってみると、原稿用紙ほど効率の悪いものはない。一字間違えても書き損じとしてくずかごに捨てる。この無駄使いはおくとしても、何故1行20字なのか、何故200字詰めなのか。原稿用紙を使って自分の仕事の仕上がり具合をイメージ出来るようになるには、相当の年期を努めなければならなかったが、それに比べるとコンピュータの編集機能は完璧で、刷り上がったときのイメージを表示してくれる。

 私はまれに見る悪筆であった上、欄外への書き込みや訂正も多かった。外国語のスペルなど書いた本人が判読できないものもあり、編集者からたびたび書き直しを求められた。校正の際の書き込みも多かった。自筆原稿はすべて処分したので、ここでお見せできないのが残念だが、表現能力が安定していなかった若者にはやむを得ないことだった。

 友人の原稿が印刷工場の火災で焼失してしまうという事件があった。友人は記憶をたどって書き直したという。この事件を聞いてから、生原稿はコピーして手元に置くことにした。このおかげで鉛筆で書けるようになり、判読不能の文字は消しゴムを使って訂正できた。ゼロックスコピーすると、鉛筆書きの印象は消え去り、私の悪筆もそれなりに映えた。そのかわりに、原稿は萬年筆で書くもの、消しゴムで消すようないい加減な文章は書かないという学生の頃からの原則を、自分で否定することになった。

 このように非効率的な文具はいつ、だれが考案したのだろうか。百科事典で調べてみると、江戸時代にすでに使用されており、1行18字、22字のものもあったという。つまり、江戸時代の版本に合わせた用紙だったのである。これには驚かされた。新聞小説の1行字数はこれに近いが、明治期の新聞小説の形式が版本に似せたことの名残なのだろう。非効率の形式がかこれほどながく生命力を維持し得たのは、作家たちの見栄に原因があると思う。

 コンピュータを使い始めてから私は原稿用紙で文章を書くことはなくなった。出版社の編集部も最初は原稿用紙の代わりにフロッピーをくれたが、ディスクの価格が安くなった今ではそれさえもなくなった。原稿の送付も書留郵便からメールに変わった。執筆活動は「効率化」された。学位論文や卒業論文の執筆条件も、いまでは字数で示されるようになった。

 しかしそうであっても、また「効率的」知的生産に取り込まれれば取り込まれるほど、萬年筆や毛筆で原稿を書くことへのノスタルジックな渇望は私の中で消えさることはない。そして可能ならば自家用原稿用紙を使って。それが最も人間らしい知的営みに見えるのだ。しかし、それを実現することは、コンピュータの効率性に取り込まれた私にとってもはや叶わぬ夢である。

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