きたにひと

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ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』讃 -私の大学(その6)-
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大学への憧憬 -私の大学(その2)-
波止場界隈(下)
波止場界隈(上)
私の大学
すり込まれている筈の風景
蔵書整理の顛末
2003年8月根室行
「書物ばなれ」と格闘する

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ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』讃 -私の大学(その6)-

 NHKの人気番組「その時歴史が動いた」がガリレオ・ガリレイを取り上げた。なぜいまNHKがガリレイを取り上げるのか。期待して見たのだが、失望させられた。ガリレイに対するローマ法王庁の決定は3世紀半を経てようやく取り消され、彼の名誉は回復された。それだけに新資料が公開され、彼が観察によって経験的に獲得した真理を「撤回」させられた審問の過程や幽閉の時代について真実が明らかにされることを期待したが、叶わなかった。科学者個人の転向とその内面的葛藤が示されることを期待したのだが、相も変わらぬ宗教と科学の対立図式で説明していたように思う。宗教をローマ法王庁が、科学をガリレイが代表する図式である。科学の発展を後退させ、後世の動向にこれほどまでの深刻な影響を及ぼした事件の取材としては、迫力に欠けていた。
 なぜいま私はガリレイに関心を持つのか。研究者はいまかってない深刻な状況に置かれている。現代には異端審問官も宗教裁判もないし、その学説によって肉体的に抹殺されたり、抹殺の脅迫を受けるたりすることもない。権利と自由が保障されている国に限ってのことであることはもちろんだが。しかし、9.11以降、研究の自由をめぐる状況は激変した。「テロリスト」や「ならず者国家」を攻撃する態度表明が踏み絵とされ、金縛りにでもあったように多くの人びとが沈黙を強いられている。産官学協同や民営化は自明のこととされ、利益を生まない研究は窒息状態に追いやられている。日本では最近の歴史の歪曲の度が過ぎた歴史認識と国益主義の横行によって加速し、研究者の間では魂を売ることを恥じない風潮が横行している。研究に自由に関わって「魂」があると前提してのことだが。「魂」のない人びとには、私のこの議論ははじめから無用で意味のないことだ。
 ガリレイの屈服は、現代科学の状況の原点ではないのか。現代の状況を解く重要な鍵となるのではないか。それ以上に科学者のあり方を考える鍵となるのではないか。


 現代科学の先駆者としてのガリレイの屈服と人間的苦悩について私が考えるきっかけとなったのは、ベルトルト・ブレヒトの代表作『ガリレイの生涯』に触発されてのことであった。この作品は1938/39年に彼の亡命先のデンマークで書き上げられた。
 この作品には時代変革への思い、ドイツの政治状況、原爆開発に対する科学者の協力に対する批判やほのめかしがちりばめられ、そのことがこの戯曲に対する過ぎた政治的理解を生み出してきたように思われる。ブレヒトのこの芝居を観たのは、記憶はあいまいなのだが、大学院生の頃ではなかったか。俳優座の公演だったと思う。私のその頃の学問認識や政治姿勢を反映してか、ガリレイが法王庁に召喚され、屈服して地動説を撤回する過程ばかりが印象に残り、科学者に対する権力の圧迫の象徴的事件として、私は理解していた。ガリレイの屈服は真理をまもるための偽装であり、彼は私にとって讃えられるべき英雄であった。
 1998年、ブレヒトの生誕100年の記念の年、ベルリンでベルリーナーアンサンブルによる上演を観た。ソ連・東欧社会主義の崩壊もあって政治主義的理解は影を潜めていた。観劇を機にあらためて読み直してみて、完全に読み違えていたことに気がついた。強く印象ずけられたのは、そこにあざやかに科学者がたどる生涯が典型として示されていたことだ。まぶしいほどに光り輝く精力的な40代の科学者ガリレイと地動説撤回後の晩年の老いの姿の対比、そして寂寞とした心的状況は、この芝居が問いかける現代科学者論について考える以前に、一人の科学者の生涯として胸打たれるものがあった。  この作品の中で、ガリレイは実験と観察に夢中になり、科学の将来を大衆に熱っぽく語る一方で、きわめて世俗的な学者として登場する。自分の給料の交渉をし、パトロンが求める実務に役立つ設計や計算もし、どこででも手にはいるような望遠鏡をパトロンに献呈して機嫌をとる。娘に嫁入り道具の一つもかってやりたい、物理学の本だけでなく本も沢山買いたい、いい食事もしたいのだと、彼は待遇の改善を求める。おいしいものを食べられる待遇が欲しいという(「おいしい食事の時が一番よい考えが浮かぶ」というせりふに感じ入って、私はこれを人生訓としたために、愚かにも多くの病を得た)。  かって大学が「象牙の塔」としてあがめられ、特別視された時代があった。学者たちのいささか非常識な奇行も尊敬故に見過ごされた時代もあった。「象牙の塔」に生活するが故にストイックな科学への献身が求められたこともあった。その名残りはまだ社会の至る処に残っており、時として内外のからいわれのない非難の対象となっている。現代の学者にストイックな希求を求めても意味がないのだが、ガリレイの生活に示される世俗性こそ学者の人間としての、社会の構成員としての連帯感と信頼関係の基礎ではないだろうか。
 ガリレイの登場の意義は何か。実験や観察の結果を率直に表現することが、権威や権力に対する脅威になる時代に入りつつあった、その時代の象徴である。哲学から実験科学へ、そのことの意義を彼は明確に自覚していた。コペルニクスやブルーノとの決定的な違いはそこにあった。コペルニクスたちは法王庁の教義理解や解釈権への挑戦として抹殺されるか、禁書の扱いを受けた。実験や観察はそれ自体が大衆との連帯を実現できる基礎であった。運動の法則は誰でも体験でき理解できた、天体も望遠鏡で覗けばその運行について経験的に理解できた。それだけに近代科学は誰に独占されるものでもない連帯性を基盤にした科学に発展する可能性を秘めていた。それだけに知識のとその解釈の独占を保持しようとする支配層にとって大きな脅威ではなかったのか。それだけにガリレイの屈服はまぎれもない裏切りであった。


 法王庁の監視下で生きる師に敬意を表するために訪ねたかっての愛弟子アンドレアは、ガリレイが『新科学対話』を密かに書き進め、完成していたことを知り驚愕する。師の屈服は見せかけで、自分の学説をまもるための巧みな戦略であり、新しい研究倫理の実践だったのではと、師に対する評価を変える。ガリレイは、屈服したのは拷問が怖かったから、肉体的苦痛が怖かったからだと答える。屈服は計画的なものではなかったと答える。自分は科学に対する「裏切り者」であることには変わりはないといいきるのだ。学者としての「見栄」がコピーを隠滅することを躊躇わせたのだと述懐する。  それにもかかわらずガリレオが屈服の過去への悔恨の念をにじませながら、自分が挫折によって学んだ教訓を愛弟子に伝えるくだりを、私は涙なしに読むことができない。アンドレはすでに学者として自立し、ガリレイがかって求めたものとはまったく異質の学者として生きている。あらためて師の学問論、科学者に傾倒することなどあり得ないように思われる。それでもなお語らなければならないという、内面の葛藤に心打たれるのだ。
 私、さらには私と同世代に人の多くは、それがいかに挫折と誤謬にまみれた体験であったとしても、戦争反対、安保闘争、大学の自治と研究の自由をまもる運動は科学者の人類的責務であると考えていた。いささか時代がかった表現だが、それが科学者の「魂」であると考えていた。その体験がこれほどまでに完璧に継承されず、学会や個別担当科目に逃げ込み、産官学協同は科学研究の内だとうそぶく輩ばかりが多くなってしまったのだろうか。あらゆる研究は普遍的人類的なものである筈なのに、なぜ科学の名において矮小化し、特定の利益集団や短期的視野の利害に奉仕する試みが横行するのだろうか。
 ブレヒトはガリレイを通して、科学の目的は人類が生きてゆく労苦を軽減することだと断言する。今は言われると何でもする小才のきいた輩が輩出し、人類の労苦の軽減とは正反対の結果を生み出しかねない研究が進んでいると警告する。アンドレアからはこれに明確な答えは返ってこない。彼はすでに師とはまったく違った科学世界に生きているのだから当然であろう。
 今の時代にブレヒトのように主張するならば、若い研究者からは老人の繰り言として片付けられ、「ださい」と無視されるだろう。しかし、ブレヒトがあの時代に流れに抗して書いたことは正しかったし、いまの時代にもこのテーマは至る処で語られなければならないと思う。ブレヒトは讃えられてあれ。今年はそのブレヒト没後50年の記念の年である。この年に、この時代に人は彼からあらためて何を学ぶのだろうか。


〈付記〉
 岩淵達治によると、『ガリレイの生涯』は1958年3月末に千田是也の訳、演出、青年劇場によって俳優座劇場で上演された。この上演には「戦時中の偽装転向という問題関連性から関心が寄せられた」。私が大学院時代の仙台で観た上演はこれだったようだ。ガリレイの屈服に対する千田の解釈がどのようなものだったのかについて確認していないが、私自身の観劇の印象とあまり違ってはいないと推測する。
ベルトルト・ブレヒト作、岩淵達治訳『ガリレイの生涯』岩波文庫、1979年、「訳者あとがき」308ページ。


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