きたにひと

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ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』讃 -私の大学(その6)-
研究業績 -私の大学(その5)-
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大学への憧憬 -私の大学(その2)-
波止場界隈(下)
波止場界隈(上)
私の大学
すり込まれている筈の風景
蔵書整理の顛末
2003年8月根室行
「書物ばなれ」と格闘する

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最近考えること
2003年8月根室行

 この夏、自分の生まれた場所を久しぶりに訪ねた。北海道根室市本町3丁目9番地、これがぼくの生まれた場所である。ぼくはここで二度生を得たと、最近考えるようになっている。一度は、1936年2月のある日に、1945年7月15日の早朝までこの住所に確実に存在した家で生まれた。もう一度は、その同じ日に、ぼくはこの場所で幸運にも生き延びられた。その幸運の意味を最近つくづく考えさせられる。その生死の境を考えてみたい、それが旅の目的であった。

地図

 国民学校4年で、わずか9歳でしかなかった少年が「生と死」の意味を理解できたはずもない。あの日の体験はぼくの記憶と感性の中にすり込まれ、ことあるごとに確かに思い起こされはした。しかし、その体験を、「生を再び与えられた日」と感じとれたのは、ごく最近のことである。

 1995年1月17日の阪神淡路大震災の報道で、あの時に自分が「生き延びた」ことが思い起こされたのであった。神戸市の上空を飛び回り、燃えさかる長田のまちを取材するメディアの無神経で無礼な実況報道に立腹しながら、ぼくもあれと同じ、あるいはそれ以上の状況におかれていたことを実感したのだった。1945年7月15日、執拗に爆撃と銃撃を繰り返すグラマンの攻撃から逃げまどうぼくは、ほとんど後ろを振り返ることもなく、背後で燃えさかるまちを見る余裕などなかった。炎上する長田のまちは、自分があの時に置かれていた状況を生々しく再現してくれているように思われた。自分はあの時に幸運にも生き延びられたのだとつくづく思ったのである。

 ぼくの戦争体験はすでに半世紀以上も前のことである。しかも、ぼくの世代の体験の記憶は危ういもので、切れ切れでしかない。戦争体験ほど、説明することが難しいものはない。ぼくの世代より上のひとびとには、その体験はもっと生々しい記憶として残っているはずだ。ただ、あまりの生々しさに、語ることをためらうことにもなる。彼らのまわりにはあまりに多くの死があった。戦争は彼らの社会的地位を上昇させたり、没落させもした。だから、彼らはたいていは率直に語りたがらない。あるいは死そのものを美化することさえある。特攻隊世代などはそのよい例であろう。ぼくの世代にはそれがない。あるのは時々思い起こさせられる、脳髄のどこかにすり込まれた切れ切れの情景だけだ。

 イラク戦争、有事法制に関する報道や議論を見るにつけ、これらの切れ切れの記憶をつなぎ合わせ、思い出したことも書き残しておく責任があると考えるようになった。逃げまどう民の体験は日本の国民的体験でもあったことを様々な機会を捉えて主張しなければならないと思うようになった。現代の戦争は大衆を巻き込んで、大衆を盾にして、軍事的目的の貫徹を最優先して展開される。焼夷弾と爆弾で破壊されたあのまちの中心部にも軍事施設や部隊が公共施設を利用して展開されていた。多くの漁船が調達されていた。戦争は民衆を盾に、民衆の生命と財産を犠牲にして進められること、「誤爆」はプロパガンダ以外のなにものでもないこと、そのささやかな体験と記憶を綴って書き残さなければならないと、つくづく思うのである。

◇◇
 8月10日、この日は金比羅神社の例大祭がまちを挙げて行われる。高田屋嘉兵衛の創建になる社である。まちはずれの港を見下ろす高台にある社から神輿がまちの中心にある御旅所まで練り歩く。台風10号の影響で前日の宵宮は最悪の天候だったが、この日は見事に晴れ上がった。行列を、ぼくはかって柳田家が本店を構えていた本町3丁目の通りで見たいと考えていた。いまはいくら思いを巡らしても、この150メートルほどの通りの当時の全体像と柳田家の壮大な屋敷の細部を再現できないだが、この屋敷は高台にあって、その裏の崖の下に柳田藤吉が私財を投じて建設した通称柳田埋立地が広がっていた。ぼくの家はその埋立地に、柳田の邸宅のちょうど真下にあり、柳田家は大家、ぼくの家は店子であった。柳田本店の真向かいには安田銀行(戦後富士銀行に改称し、現在はみずほ銀行)根室支店の建物があった。柳田が創設した根室銀行が安田に吸収されてできた支店である。子どもの目にも美しく映る洋風の建築だった。その周りで遊んだ記憶も残っている。

 海岸の崖に沿って東西に続く本町の通りは、このまちが持っていた国際性を体現した通りで、いわばこのまちの繁栄の基礎であり象徴であった。北前船が膨大な富を「内地」に運び集積させた、その重要な基地であった。昆布、エビ、カニの干物などの世界市場商品が商われ、輸出された。柳田家はその象徴であった。明治期の著名なジャーナリストである横山源之助の『明治富豪史』にも柳田は藤野、山県とならんで富豪として特記されいたことを思い出す。函館を舞台に幕末から明治に生きたオランダ語通詞を主人公にした作吉村昭の『黒船』にも、英語教育に貢献した人として柳田の名があったように記憶する。

 ぼくは北での成功者の話をあまり好まない。「内地」(北海道では本州をいまだにこのように呼ぶ人が多い)で生きていると、アイヌと北の富の収奪がもたらした栄華のあとを方々に見ることができる。成功物語は様々な地方に逸話として残されている。しかしながら、かっての北前船の寄港地に残る豪華な邸宅、近江商人たちの大邸宅を見るにつけ、ぼくは自然の富を収奪しつくされたうえ、戦火によって廃墟にも似た様に変えられたこのまちの悲しみを思わずにはいられない。

 祭りの神輿は柳田本店の玄関前で休息し、接待を受けた。だから、祭りの行列を見る場所は、いつもここだった。柳田本店はこのときだけ正面玄関を開け、幔幕を掛け、玄関先に大きな人形を飾るのが習わしだった。いまこの通りにはまったく何もない。柳田と表札のかかった小さな民家があるだけだ。安田銀行のあったあたりは空き地になっている。だから、祭りの行列がここに止まることはない。通り過ぎていくだけだ。

◇◇◇
 ここに立って思いを巡らしたかったのには、もう一つ理由がある。ぼくは1945年のあの日の朝の切れ切れだが、なお鮮明な記憶をつなげてみたかったのである。あの日の朝、ぼくは母と幼い弟たちと柳田本店の前にあった防空壕に逃げ込んだ。安田銀行の前かそれよりも少し西にあったと思う。

 空襲警報のサイレンとグラマンの爆音とはほとんど同時であった。14日にも空襲があり、前夜から玄関先に準備しておいた防空頭巾と非常食を持って三洋館前の地域防空壕に飛び込んだときには、もう機銃による攻撃が始まっていた。きわどいタイミングであった。それがぼくの生家、ぼくと先祖たちのすべての生活記録を失わせ、祖母との永遠の別れの時になるとは予想だにしなかった。

 1993年9月に刊行された根室空襲研究会の手になる『根室空襲』が紹介する当時の根室支庁報告によると、「午前5時5分警戒警報、5時8分空襲警報、5時11分来襲」とある。サイレンと同時に攻撃が始まったというぼくの記憶は正確だったようだ。

 第1波の空襲はそれほど激しいものではなかったように思う。防空壕の上から港内に散開した徴用船(軍に徴用された漁船が多かった)が機銃掃射によって沈没する様子を眺めていた。第2波の空襲で防空壕の向かいの旅館、三洋館の裏から火の手が上がった。これが空襲による火災の発生の最初であった。『根室空襲』に収録されている、米軍撮影の航空写真がそれをとらえている。逃げ切れずに焼死した祖母キノの検視調書には、「7月15日午前8時頃、敵空襲に依り、銃爆撃の為に焼死」と記載されている。三洋館のあたりからの出火は8時頃であったことは確実である。

 爆撃の合間に祖母の救出のために現場に残るという父と別れて、ぼくたちは三洋館前の坂を駈けのぼり、柳田本店前の防空壕に逃げ込んだ。第3波の爆音が聞こえたかと思うと、すさまじい銃爆撃が開始された。近くに落とされた爆弾で防空壕は土煙のなかで揺れ、通気口からガラスの破片が爆風とともに壕内に突き刺さったことをいまでも記憶している。そこから逃れでて、ぼくたちは必死に爆弾で破壊されたまちを逃れて、山手に走った。本町周辺、特に柳田家を中心に10数発の爆弾が投下されている。最も防空壕に近いものは100メートルくらいしか離れていなかった。もう少し壕よりに落ちていたら、ぼくの今は確実になかった。

 逃げるとき、坂の下に燃えさかる三洋館を見た。少年であったぼくには、あの火炎はあまりに巨大で、今も時々鮮烈に思い起こされる。

 『根室空襲』によると、柳田本店の前に爆弾が投下されたことになっている。ここに収録されている証言のなかに、ぼくたちが逃げ去ったあとの状況がよくわかるものを発見した。柳田本店の前には防空壕が二つあった。ぼくが逃げ込んだのは民間用防空壕で、もう一つ、近くに駐屯していた軍隊の防空壕があったらしい。ぼくたちが逃げ去ったあとにこの駐屯している軍隊に対する攻撃があったものと考えられる。7月16日、父が祖母の遺体を荼毘に付すために焼け跡にいった時には、二人の兵士の遺体があったという。おそらく崖の上から爆風で飛ばされてきたものと推測される。

 7月17日、祖母の骨を拾うためにわが家の焼け跡に立ったとき、地面はまだ熱かった。兵士たちの遺体はすでに片づけられていたが、新しい二人の遺体が発見され、荼毘に付されていた。ぼくの家の向かいあたりに住んでいた青年で、崖に作られていた壕の中で焼死し、爆風で崖が崩れて壕が土砂に埋まり発見されなかったのだろう。この二人の名前はなぜか『根室空襲』には記録されていない。

 ぼくの家のまわりの痛ましい遺体の群れの記憶は、思い出すと生々しく蘇る。そして、あの時生き延びられた幸運を思うのである。

◇◇◇◇
 ぼくが1945年7月15日の早朝まで住んでいたまちは、この日以来完全に消えさった。そこにどんなまちがあり、誰が住んでいたかについての記録もない。そのまちがあったことさえ住んでいる人たちに記憶されていない。賑わったまちがあったことが、たった50年の間に否定されているのだ。柳田埋立地はさらに埋め立てられ、建物が失われただけでなく、かっては賑わった波止場も消えてしまった。昔の港の風景をしのぶよすがもない。
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柳田埋立地のメーンストリートの現状。道路左手奥の家が昔のぼくの家があったあたりか。左手崖の上が柳田邸宅跡。
ぼくが住んでいた家の当たりには民家が2軒あるだけで、すでに盛りを過ぎた感のある水産加工場や缶詰工場があるだけだ。うらぶれた情景としか表現しようがない。

 この情景と空襲がもたらした戦後の貧窮な暮らしのせいか、ぼくは崖の上には富豪、資産家の柳田の瓦葺き御殿と崖の下の貧乏人のトタン屋根の家作という対立の図式で捉え、かっての暮らしぶりを思い起こすのは苦痛であった。しかし、崖の上の本町界隈とはまったく異質の賑わいの風景(そのほとんどはぼくの記憶をつなぎ合わせた想像の産物なのだが)があったことを、いまではこだわりなく思い出すことできる。

 柳田埋立地は倉庫群と港に関係する業者たちのまちであった。千島列島や歯舞諸島への旅人を運ぶ渡船会社や多数の旅館が立ち並んでいた。旅館はがけの上の高級旅館のようなものではなかったものの、収入と地位に応じた宿泊施設が用意されていた。海産物を商う会社、倉庫の海産物を出し入れする運送業者、波止場に集う人に軽食を供する店、そのほかにもいろいろあったと思う。それにしても記憶に残る一緒に遊んだあの沢山の子どもたちはいったいどこに住んでいたのだろう。考える限りでのいろんな遊びがあった。あの日以降子どもは消えてしまった。ぼくの記憶の中には幼なじみなどほとんどでてこない。

 夏祭りには山車があの急な坂を下りて、裕福な家々の前で手踊りを披露し、祝儀を受け取った。その家の子は誇らしげだった。ぼくの家の前にもとまっただろうか。津軽三味線の門付け、三河万歳などの旅芸人がいつも軒先に立っていた。富山の薬売りも毎年決まった頃にやってきた。みな近所に宿をとり、北方の島にも渡っていったのであろう。

 自分の生まれた場所の賑わいを想像して心がなごむようになったのは、本当にごく最近のことだ。

◇◇◇◇◇
 この日の夕暮れころ、ぼくはあらためて昔三洋館の玄関があったとおぼしきあたりに立った。この場所から西の海をながめると、少年時代の印象的な光景を思い出す。どういうわけか、弁天島を正面にした波止場の風景、港を一望できた東の海よりも西の風景の記憶に愛着がある。

 ここから、防波堤の役割を果たしている弁天島よりも巨大な軍艦の船影を見たような気がする。帝国艦隊は真珠湾攻撃のために択捉島に集結したと言うから、その前後のことであったのかもしれない。ここから見た雪を被った知床の山並みは美しいとしか言いようがなかった。蜃気楼もここに立って見た気がする。クジラが打ち上げられたこともある。太平洋戦争が激しくなる中でアザラシの捕獲と処理工場が建設された。軍需工場だったと思う。おそらく皮が兵士たちの防寒服に利用されたのだろう。あの膨大な肉と脂肪はどうなったのだろうか。あの年のこの濱はアザラシの血で赤く染まっていた。その栄養はこの濱に寄せる魚たちの栄養となった。冬になるとシベリヤから押し寄せる流氷でこの濱は埋め尽くされる。氷下魚(コマイ)漁の季節である。1945年の冬も大漁だった。氷に穿った穴に釣り糸をおろすだけで大きな魚が面白いように釣れた。それが毎夕の食卓に上った。

 ぼくは自分の骨をこの海に撒いてほしいと思うようになっている。自分の生まれた土地に還るのが自然のならいだと思うし、1945年7月15日に柳田埋立地で見た多くの死、自分があそこで死なずに住んだという意識を妙に重ね合わせたくなるのだ。小学校時代の同級生のKに散骨のアイデアを話したとき、Kは即座に「氷下魚のえさになると言うことだな」といった。その通り、ぼくは氷下魚が大好きだ。小さいときから沢山食べてきた魚のえさになるなら本望だ。これはよいアイデアだと思った。魚がはたしてぼくのカルシウムを食してくれるかどうかは解らないが。

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