きたにひと

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ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』讃 -私の大学(その6)-
研究業績 -私の大学(その5)-
大学教授 -私の大学(その4)-
学生 -私の大学(その3)-
大学への憧憬 -私の大学(その2)-
波止場界隈(下)
波止場界隈(上)
私の大学
すり込まれている筈の風景
蔵書整理の顛末
2003年8月根室行
「書物ばなれ」と格闘する

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最近考えること
すり込まれている筈の風景

 戦争の悲惨は、多くの生命が殺戮され、肉親や友人が永遠に失われことだけにとどまらない。自身の生にかかわった重要な風景が脳裏から永久に奪われること も耐えがたい。歳を重ねるごとに、奪われた人々の苦悩は加重される。
 私自身も加齢とともに自分の人生を回想することが多くなった。アメリカ軍の執拗な空襲でまちが燃え切った1945年7月15日以前の生活の記憶が記憶喪 失症にでもかかったように消え去るか、おぼろげになっていることに、焦燥感を覚えるようになった。この日以前の生活の風景は私の記憶の中にすり込まれてい ることは確かなのだが、私の脳裏に焼き付いているはずなのだが、それが思い出せないのだ。
 あの日、グラマン戦闘機の無差別爆撃によって私の生まれ親しんだまちは炎上して消え去った。住民も離散した。毎日のように遊んだ友の名も私の記憶からほ とんど消え去った。あの場所にいまあるのは雑草が生い茂る荒れ地と傾きかけた水産加工場だけだ。思い出すための手がかりとなるものはほとんど残されていな い。生家のあった後にいま民家が一軒だけたっている。この家を数年前に訪ねたことがある。応対に出たこの家の主人はここに賑わったまちがあったことなど まったく知らなかったし、かって私がここに住んでいて懐かしさのあまりチャイムを押したという挨拶にもさほど関心を示さなかった。彼にとってここは住むに はあまりにさびれきったまちはずれでしかなく、かってここに住んでいたことを懐かしむ突然の訪問者を奇異な眼で眺めるのも不思議ではなかったといえるだろう。
 戦争体験は体験した人以外にはその悲惨と苦悩は理解できないのではないかと思う。戦争体験が継承されないのはそこにも原因がある。少なくとも私の場合は そうである。家族でさえ理解者とはなり得ないのだから。まして、まちの風景が消失したことにこだわることなど、体験しない人には奇異に映るに違いない。
 しかし、懐かしい風景が突然消失することの悲惨さは、世界の各地で今も繰り返されている。イラク、ファルージャに対するアメリカ軍の熾烈な攻撃の映像を 見るにつけ、私は自分の体験と重ね合わせて、その体験の悲惨さが繰りかえされていることに胸が痛む。殺戮と破壊の現実はマスメディアに巧みに操作して隠さ れてはいるが、その破壊は想像を絶するものであろう。住民たちの生命が奪われ、その生活のよりどころが奪われるだけではない。私のようにその記憶を再生し うる風景も永遠に失われるのだ。この現実は悲惨という言葉だけでは表現しつくせない。広島でも長崎でも、あるいは東京でさえもこの悲しみは続いている。
 私がそれらの悲しみすべてを理解し、共感できるとは言わないし、また言えるはずもない。しかし、私は自分の脳裏にすり込まれている筈の風景をいくらかで も記録しておくことは、それらの無数の悲惨のごく一部を伝えるものとして、意味のあることだと考えるようになっている。

 戦争による風景の消失に追い打ちをかけたのが千島列島、歯舞諸島のソ連による占領であった。まちの消失は決定的なものになった。この場所にふたたび家を 建て、営業を再開しようという人はもはや誰もいなかった。まちは再建されなかった。いうならば、私たちは歴史に翻弄されて、また風景を失ったのである。
 それに加えて、このまちの行政を担う人たちは先人たちの遺産ともいうべき風景の価値を認めず、埋立てによって徹底的に破壊してしまった。埋立てがこのま ちに新しい価値をもたらすはずもないのに、愚かな施策だったと思う。このまちの賑わいは、私のようにそこに生きたものにとってだけでなく、水産物貿易と北 方との交流によるかっての繁栄を呼び戻すためのシンボルではなかったのか。その景観も消え失せ、当時の賑わいと生活文化の雰囲気をうかがわせるものは何も なくなってしまった。この変貌は悲惨なことだ。そうとしかいいようがない。

 当時の写真が残されているなら、風景とその色合いをある程度まで再現できるかもしれない。第二次世界大戦で破壊されたヨーロッパの都市のいくつかは絵画 や写真を参考にして修復が進められた。その代表例がワルシャワである。
1976年12月、私はこのまちを訪ねた。第2次大戦中にナチスに徹底的に破壊され たこのまちの旧市街は見事に再現されていた。絵画と写真が果たした役割は大きかった。旧市街の復興された建物のショーウィンドウにはかっ破壊前の建物の写 真と破壊の状況が展示され、市民の再興への強固で熱い意志を感じさせられた。ベネチア出身の風景画家、B・ベロット(1720−1780)、通称カナレッ トが当時のワルシャワの景観図を多数描き残しているが、これらの絵も写真とならんで都市再興に重要な役割を果たしたのである。ワルシャワの市民たちの風景 へのこだわりに頭のさがる思いであった。都市の景観に無頓着な、日本人のありかたを考えさせられたものだった。ドイツ、ザクセン州の首都ドレスデンの復興 でもカナレットの風景画が重要な手がかりとなった。イギリス空軍の無差別爆撃によってエルベ河畔のフィレンツェとさえ讃えられた美しいまちは一夜にして廃 墟となったのだが、景観再現の作業は今なお続けられている。

 2004年9月、前年に続いて根室市を訪れる機会が与えられたので、写真を探してみようと思い立った。写真が残されていれば、記憶の再生の手がかりにな ると考えたのである。設立されたばかりの根室市歴史と自然の資料館を訪ねたが、残念ながら絵葉書しか収集されていなかった。当時のあのまちにカメラを所有 する人が多くいたとは考えられないし、かりに写真があったとしても、焼失したか散逸したに違いない。主任研究員のKさんのご好意で絵葉書の何枚かを送って 頂いたので、この文章を書くことことを思い立った。
 不思議なもので、これらの写真を眺めていると、1945年7月15日以前の少年時代の状景を想い出すことが多くなった。それが本当にあったことなのか妄 想なのかは確かめようもない。だが、さまざまな記憶が場所と関連づけられて呼び覚まされる。かりにそれが今の私の思いこみにすぎず、記憶の正確さに問題が あるかもしれない。そうであったとしても、それを書き留めておくことは意味のあることではないか(続く)。


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