大学教授 -私の大学(その4)-
私の大学への憧憬は入学した頃とは少しずつ変化し、形を変え始めていた。専門課程に進むころから私は急速にマルクス主義に傾斜していった。大学では「学ぶことの自由」にも多くの制約があること、後光が差すほどの学識の持ち主である教授でも学生たちの主張に頑なな人たちがいたし、アカ攻撃雑誌の記事に名前が載ったといって保身をはかる人も少なからずいた。当時から目立ち始めたアメリカの対日工作に身をゆだねて変節する教授もいた。学生運動のリーダーや共産党員の学生を目の敵にする教授たちも多かった。時流におもねって生きる人はいつの時代にもいるものだが、許されることではないと思われた。戦前の治安維持法によって検挙され、戦後に復職した教授たちに対する畏敬の念はいや増すばかりであった。
その当時の私たちの雰囲気はその後、全共闘運動に参加した学生たちにも現れた。彼らのいう「スターリニズム」に距離をおいた宇野弘蔵教授の一門やスターリン批判に嫌気をさして遁走した教授たちがもてはやされた。しかし、私の時代の風潮とは違う。彼らがもてはやされたのは、「スターリニズム」に汚染されていないという、ただそれだけの理由からだったと思う。宇野の非実践性、現状分析に対する無為無策も問題にはならなかった。彼らの主張した「大学=労働力商品生産工場」論は、案外宇野の原論の都合のよいところをつまみ食いだったのかもしれないし、彼らの即物的実践性の背後にある非実践的特性が宇野と呼応したのかもしれない。そう考えてみると、彼らのその後の変身も理解できるというものだ。
大学がいつの時代でも権力に対して完全に自由であったためしはないのだが、普遍的自由と平等を実現できるゴリキー的な「私の大学」への渇望が高まり、私は学生運動と政治活動にその夢を託していくことになった。そんな私があろうことか大学教師になり、しかも70歳のいまに至るまで大学の現状を愚痴りながら続けてきたとは、なんという皮肉だろうか。その経緯と葛藤をここで書く必要はない。弁解じみたことも沢山書かなければならないからだ。私の大学教師としての生活は「私の大学」への憧憬と現実との狭間でたえず引き裂かれ、その葛藤のなかで漂流し続けた。動揺し、ときには世俗に傾斜していると誤解されもした。
とりわけ大学紛争は私にとって大きな試練であった。全共闘運動に専門馬鹿とか蛸壺式研究とののしられ、象牙の塔を打ち壊せとばかりに物理的に破壊されるのには、はらわたが煮えくりかえる思いがした。大学自治の真の発展を目指していた若い教師にとっては、彼らにそのように罵られたくなかった。彼らに私たちを罵る資格はないと思った。彼らは批判の基準を持てるほど学んでもおらず、大学を体験してはいなかったからだ。学生たちの苛立ちを理解できないわけではなかった。私の学生時代以上に大学は自由のない、隙間のない窮屈な世界に変貌を遂げ、まだ残っていた研究の自由も制約され、産学協同の場に化しつつあったことという時代背景との関係は無視できないからだ。
今の大学の状況は大学紛争時代よりも惨憺たるものだ。彼ら学生たちが壊すと主張した保守的秩序はますます強固になってしまった。よく観察すると、いまのリーダーたちはいわゆる全共闘世代で占められ、大学のリーダーたちにもかって運動に参加した人たちが多い。「大学改革」のリーダーたちが、趣味みたいな研究をしている教授もいると学問を口汚く罵るのも、かって学者たちを専門馬鹿と罵って物理的に破壊し、肉体的に追いつめた全共闘運動のイデオローグたちと同じではないか。あの頃活動家と称する学生たちのなかには、大学解体を叫びながら、ヘルメットを脱いで従順な学生になりすまし、平気で教室に来て講義を聴いていた輩もいたし、教師を脅して単位をせしめていた連中もいたことも思い出される。その俗物性にあきれかえったものだ。
現状を世代論で理解しようとは思わないが、かっての俗物性がいま再生され、権力と金力に無抵抗な大学破壊が進んでいるように思われてならない。
学者は根無し草のようなものだ。経済システムに確たる基盤を持ち得ていない。社会の度量の広さによって生かされている。社会が無用にも見える学問分野や革命的すぎる学問を大学の中に生かす度量を失えば、簡単に放逐される。歴史はこの悲喜劇を幾度となく繰り返してきた。今のような産官学協同の推進もそのような時代の到来なのかもしれない。自分の学問を自嘲的に「趣味みたいなもの」と表現することはあるかもしれないが、それはそのような学問も生かされていいという願望や、それが生かされていた時代への郷愁の少々ひねくれた表現というものだ。大学のリーダーが、有史以来学者たちが曲学阿世と罵られ焚書されようとも維持してきた制度と伝統、さらには大学がまもり続けてきた人類的責任を罵ることは許し難いことではないか。