きたにひと

きたにひと
ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』讃 -私の大学(その6)-
研究業績 -私の大学(その5)-
大学教授 -私の大学(その4)-
学生 -私の大学(その3)-
大学への憧憬 -私の大学(その2)-
波止場界隈(下)
波止場界隈(上)
私の大学
すり込まれている筈の風景
蔵書整理の顛末
2003年8月根室行
「書物ばなれ」と格闘する

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最近考えること
大学への憧憬 -私の大学(その2)-

 大学は憧憬の対象であった。私のまわりにはまったく存在しない、また存在しえない知的雰囲気と知的資産が集積された聖なる場所であった。内地の、しかもその都会の聖地で学ぶことは、当時の私の家の経済的貧窮からみてかなわぬ夢に思われた。「内地」は、地の果てのようなみすぼらしいまちにみずぼらしく住む者みにとっては、容易には到達できない「外国」にさえ思われた。その聖なる場所にたどり着くこと、それが私の大学入学の動機のすべてであったといってよい。

 「内地」という表現がいまでも北海道で使われているかどうかは知らない。北海道の住民は、私が生を受けた頃にはまだ、自らを入植者と位置づけ、津軽海峡を越えた彼の地にある故郷とその精神こそが本来住むべき、依拠すべき場所と信じていた。北アメリカの入植者たちが自らの地を「新世界」と誇らしげに宣言したのとは大違いだった。札幌農学校の出身者たちを例にフロンティアスピリットを称揚する議論も盛んだったが、北海道のそのまた「僻地」に住む私の劣等感を消し去ってくれるものではなかった。フロンティアスピリットは、いま考えると戦後民主化を操作するためのイデオロギーとして利用されたのではないだろうか。

 このような知的環境の格差は、戦争によって絶望的なまでに拡大し固定された。私のまちにあるいは存在していたのかもしれない知的財産の集積は空襲によって瞬時に消え去った。そのため中学高校時代の私の読書は惨めなものになった。いまでも私はそのことを羞じている。高校の図書室にも読むべき新刊書や雑誌など並べられてはいなかった。大学進学は、このような知的貧しさからの私なりの脱出の方法でもあった。内地には、このまちにはないすべてがあるように思われた。大学は私を知的欠乏から救済してくれる聖地そのものだった。

 私の入学した大学の教養課程は、旧制高校の校舎は空襲ですべて焼失したので昔の陸軍幼年学校の校舎を使っていた。学部構内にも戦争の爪痕は方々に残っていた。受験参考書にはみすぼらしい焼け跡もバラック同然の建物も紹介されていなかったから、これが大学の建物かと驚かされたものだ。しかし、建物や設備はともかく、私の知的好奇心は十分に満たされた。都市出身の友人の中には講義のレベルの低さを嘆き、図書室の開架図書の少なさを指摘する人もいたが、私にはすべてが目新しく新鮮であった。私の読書遍歴は図書館の開架図書から始まり、手当たり次第無差別に読みあさる読書性癖はこの時に完成した。

 教師も個性的な人が多かったと思う。学生に心開いてくれた多くの体験を思い出すと、いまも熱くなる。私は大学が保障してくれる「学ぶことの自由」に浸りきり、学ぶことを媒介にして実現した「平等」に満足した。教師も学生も学ぶ仲間として平等であるように思われた。私はこの情景に満足した。

 この平等主義、これが「私の大学」の何物にもかえがたい普遍の原理となった。大学にも大学教師にも学者にも「権威」はいらない。


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