研究業績 -私の大学(その5)-
大学教員とは「研究業績」という悪夢に悩まされ続ける職業である。場合によってはその「業績」によって道を誤ることもある。
「業績」という言葉の本来の意味はなにか。中国に由来する言葉ではない。国語事典を引くと、もともとの意味は営業成績だという。売上高をどれだけ伸ばしたか、利益をどれだけ増やしたかという経営的成果のことである。この成果は大抵の場合、貨幣量で時間を限って表現される。結果を求めて呻吟し、一進一退を繰り返して成果を目指す研究とは縁もゆかりもない表現である。ところがこの言葉が研究の世界で大手を振ってまかり通り、大学研究者たち自身も何のこだわりもなく使い、自らの仕事を誇らしげにリストアップする。奇妙なことではないか。
だれがこのようなおぞましい表現を学問の世界に持ち込んだのだろう。私が大学院の頃はまわりでは使われていなかったと記憶する。論文を書きなさい、学会報告をしなさいと、教授に尻を叩かれはしたがが、研究業績をあげよとは言われなかったと思う。どうやら関西あたりに起源がありそうな気がする。大学院在学中のことだ。関西の某大学から赴任してきた若い教師の言うには、関西では大学院生の研究成果は、論説は何点、研究ノートは何点、書評は何点と点数で表示され、採用人事もその総合点で決まるのだという。これには驚かされた。
私の在学した大学院はそれに比べるとまだまだ牧歌的だった。大学の学会誌は年報の形で年4回刊行されていた。長い論文を載せてくれるのが伝統で、長いものを書くように指導された。教授の研究発表に隙間ができたときに大学院生の論文も掲載してもらえた。大学院生の場合は第一作は研究ノートとして掲載し、それから論説に取りかかるというのが慣習化されていた。論説では教授も大学院生も対等に扱われた。私も研究ノート1本、論説1本を掲載できて、関西の大学に助手として採用される機会を捉えることができた。関西的業績主義の基準に依拠すれば、私の評価はきわめて低い筈だったのだが。この関西的評価基準は多くの問題がある。まず個々の論文の量の違いを度外視している。私の場合は、論説では400字で100枚相当を書き、研究ノートもそれくらいだったと思う。50枚が上限とされる雑誌と比較すれば、私の仕事はほぼ4本に相当する。さらに言えば、これは質の違いにも関わってくる。100枚なら体系的にじっくりと論証できる。これに対してテーマを細分化した論文の質はどうだったのだろうか。
人事や学位審査に関わって研究成果をどのように評価するかは、大学がこれまでに直面してきた一番悩ましい問題である。論文の質や水準を分野の違う人や研究手法の違う人が評価するから、どうしても本数に頼ることにならざるを得ず、質や水準は二の次となる。引用回数で評価基準を決める試みもあるが、細分化すれば引用回数も多くなるし、社会科学の場合にはいまだに師弟関係や同窓が重要な役割を演じているから、当然「身内」や「ボス」の仕事の引用が多くなるから、これも当てにならない。研究分野、専攻分野によって研究成果の評価基準が違うことも考慮されない。実証研究と理論では評価方法はまったく違うし、単著の刊行が昇進の基準になったりすると、もうどうにもならないくらいいい加減になる。
要するに大学では、研究も教育も効率や費用対効果で評価することなど到底不可能なのだ。さらにいえば、成果がすぐにでなくても、また失敗に終わっても、それを低く評価することも間違いだ。失敗がひらめきを呼び、よい成果に結実することも多いからだ。それは社会科学でも同じことだ。このような条件が与えられてよい成果が出るからこそ、大学の自治権や研究の自由が必要とされ、今日まで社会によって支持されてきたのではないだろうか。失敗やすぐには成果が出ない仕事が認められる制度がなくなったら、よい研究は生まれない。
業績主義の発生の地である関西で大学教員をはじめたのだから、苦労の尽きない毎日だった。しかし、今の業績主義に比べると、私が研究業績というおぞましい表現に恐怖した日々はまだ牧歌的であったように思う。学会的表現法、学会的基準を会得し、経済学博士の学位を取得すれば、なにがしかの自由を手にできた。私はそれによって大学の中でかろうじて生き延びられた。今は違う。現在進められている評価を伴う成果主義は、研究を、さらには大学そのものをも窒息させる。このことはすでに顕著に現れている。研究成果の偽装や剽窃の「事件」が増え、変節が日常化していることに示されるように、研究者の良心を麻痺させ、腐敗の気配さえ感じさせられる。この状況をどうしたら抑えられるのか、大学の内外で真摯な議論が展開されることを望む。